原作小説・アニメ・実写映画化もされた人気作品『君の膵臓をたべたい』。題名がセンセーショナルで原作小説が発売された当初から話題にもなりましたよね!
この『君の膵臓をたべたい』というタイトルの意味について考察をまとめました。
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『君の膵臓をたべたい』主人公2人について(登場人物)
僕(志賀春樹・しがはるき)
- 図書委員
- いつも読書している
- 他人に興味がない
- クラス内で一番地味&根暗な高校生
- 好きな作家は太宰治
- 強い流れに逆らわずにそのまま流されるような性格
山内桜良(やまうちさくら)
- 性格は明るい
- 活発な女子高校生
- クラスの人気者
補足:名前の意味と由来考察
「春樹」と「桜」という、春にちなんだ名前・漢字が使われていて、書籍の表紙でも桜が使われています。
ちなみに原作小説では「僕」の名前がラストまで明かされずに「僕」であり続けます。
映画ではオリジナルストーリー(12年後の「僕」)が追加されているために、早い段階で「僕」の名前が観客に明示されています。
また、なぜ主人公の名字が「志賀」だったのか、個人的に引っかかる点でもあります。
音にすると「しが」。
誤解を恐れずに言いますが……「し」(死)という音をあえて入れてきた?と疑問に思うからです。
さらに桜良(さくら)もわざわざ「良」を付ける名前だったり「やまうち」=やまい(病)と音が被っていたり、明るい性格なのに「内」という、一見「僕」の性格にふさわしいような漢字・名字があてがわれている点も考えさせられます。
『君の膵臓をたべたい』タイトルの意味と由来は?
君の膵臓をたべたいの意味(まとめ)
はじめに個人的考察からの結論から述べますが
- 無理な願いと理解しながらも生きることへの執着心(桜良が言った台詞のままの意味)
- 体や命という枠にとらわれず生き続けていたい願望(桜良が「僕」に膵臓を食べてほしい願望)
- 「僕」と桜良だけの世界を象徴する言葉(互いに憧れがあった、愛おしかった)
- 「僕」の世界が広がる合図のような言葉
と何重にも解釈ができるタイトルと思います。
意味と解釈のポイント
個人的に『君の膵臓をたべたい』の意味をくだいていくポイントとして
- 『君』とは一体誰のことを指しているのか?
- 『君の膵臓を食べたい』というセリフ・文章が出てくる場面
- なぜ「食べたい」ではなく「たべたい」なのか?
の3点に着目しました。
『君の膵臓をたべたい』の意味(君=僕の場合)
桜良の台詞「君の膵臓をたべたい」はそのままの意味なのか?
『君の膵臓をたべたい』の作品内で、ズバリ「君の膵臓をたべたい」と桜良が言っている場面・シーンがあります。
桜良と僕の出会いの場面。余命1年の膵臓の病気で桜良は「君の膵臓を食べたい」とおどけて言いました。
古来において「健康な人の臓器を食べると、自分の臓器の病気が治る」ということが迷信としてありました。つまり健康な体の「僕」の膵臓を食べると、桜良の膵臓の病気が治るーー桜良が自分の病気を治したい、生きていたいために「君の膵臓を食べたい」と冗談まじりに言ったものです。
桜良の「生きたい気持ち」を象徴する意味のタイトル
桜良のセリフをそのまま受け止めると
- 生き続けられる方法があるなら、なりふり構わない
- 実際に健康な人の膵臓を食べられるわけがない
- 誰かの命を犠牲にして自分の命が成り立つ葛藤
などが濃縮されているように感じられます。
いくらおどけて言ったとしても。
さらに「食べたい」という希望であって「食べさせて」というお願い・欲求ではないのも意味を考察するポイントと考えます。
同じおどけるなら「君の膵臓を食べさせてよ」と言ってもいいはずなのに。
「君の膵臓を食べる」=無理なことと分かっていても、冗談でも、言葉に出てしまう。
- 無理な願いと理解しながらも生きることへの執着心(桜良が言った台詞のままの意味)
自分の病気を治すのも無理=命の期限を延ばすのは無理、でも生きていたい、という意味を含んだセリフです。
『君の膵臓をたべたい』の意味(僕=桜良の場合)
桜良「膵臓は【僕】が食べてもいいよ」
また、桜良は自分が死んだときのことを話す場面があります。
「膵臓は【僕】が食べてもいいよ。人に食べてもらうと魂がその人の中で生き続けるから」
「魂がその人の中で生き続ける」
体と自分の意識は生き続けるのは無理だけど、せめて魂として生き続けたい、という気持ちが織り交ぜられているように思います。
膵臓は桜良の「命」そのもの
前述したように「実際に人の臓器を食べることなんて無理」な私たちの世界(社会)ですが、仮に、もし、僕が桜良の亡き後、桜良の膵臓を食べることになったら?
それは一生忘れられない出来事・行動となりますよね。
一歩間違えればトラウマものです。
それこそ「僕」が死ぬ間際まで、桜良の膵臓を食べた事実とともに桜良のことを忘れることはないでしょう。
- 体や命という枠にとらわれず生き続けていたい願望(桜良が「僕」に膵臓を食べてほしい願望)
というのは、裏を返せば「私のことをずっと覚えていてほしい」という現れでもあります。
さらに桜良は「病気になったからこそ、生を感じている」と言っている場面もあります。
「死に直面してよかったことといえば、それだね。毎日、生きてるって思って生きるようになった。」
膵臓=桜良の生そのもの、という捉え方もできるからこそ、言葉だけとはいえ「僕」に膵臓を食べてもらう意味が深いものになります。
『君の膵臓をたべたい』の意味(僕=主人公たち)
君の爪の垢を煎じて飲んでみたい
桜良の入院が伸びて退院した日の場面。
カフェで桜良を待っている「僕」へ桜良が送ったメールがあります。
「退院した。私を褒めなさい」
このメールへの返信を考えている最中、「僕」は桜良との出来事を振り返り「僕は本当は君になりたかった」と気づくーーというシーンがあります。
その際に「僕」は返信メールに
「君の爪の垢を煎じて飲みたい」
と一旦は打ち込むものの、面白くないと思い消した後に
「君の膵臓を食べたい」
と書き直して返信しました。
しかし、桜良からは返信はなく、桜良は通り魔に刺殺されました。
そして桜良が残していた遺書には、春樹への憧れの思いと
でもやっぱり
君の膵臓を食べたい
と書かれてありました。
相手の良さと相手そのものを自分に取り込みたい思い
救いは「君の膵臓を食べたい」という「僕」の返信メールが既読(開封済み)になっていたこと。
つまり桜良には「僕」の思いが届いていた、という証です。
お互いにわざわざ「君の膵臓を食べたい」と言い直している。
この言葉に2人の思い出・過ごした日々が込められています。
- 「僕」と桜良だけの世界を象徴する言葉(互いに憧れがあった、愛おしかった)
2人にしか分からない、言葉のやりとりと「意味」を象徴するタイトルです。
「でもやっぱり君の膵臓を食べたい」は先に書いた意味(生きていたい)にも重なりますが、初めて言った時の「君」ではなく、交流していった中での「君」であることを踏まえると、「でもやっぱり」の切なさ・「君」に対する思いの強さが感じられます。
ともすると、一番最初に言った桜良の「君の膵臓を食べたい」こそ「【僕】に憧れている」と伝えていることにもつながるため、「君の膵臓を食べたい」とメールを打っていた「僕」はもしかするとここで「ということは、桜良は自分にあこがれを持っていた」という考えが頭をよぎったかもしれませんね。
『君の膵臓をたべたい』の意味(合言葉)
「僕」が受けた衝撃の言葉
私たちが初めて作品名『君の膵臓をたべたい』を知った時の「えっ?」という思いや気持ちは、「僕」も受けています。
想像してみてくださいーー。
自分とは正反対で大して親しくもない異性が「君の膵臓を食べたい」なんて、あなたに言ってくる場面を……。(しかも相手はクラスの人気者!!)
さらに、この言葉を受けた「僕」は図書委員で、太宰治はじめ、文芸作品をいくつも読んでいるような文系男子です。
言う人間とセリフのギャップも相まって「えっ?」ってなりますよね。
言葉は新しい世界をつくる
「僕」と桜良との出会いを象徴するセリフ「君の膵臓を食べたい」。
文系少年でもある「僕」にとって、言葉(セリフ)との出会いは、新しい概念=新しい世界を構築したり、世界が広がることにも通じます。
物語の結末に行くにしたがい、他人に興味もなく流されるように生きてきた「僕」の性格も変化し、桜良の死後に自分を変えることができたーーといっても過言ではありません。
そう考えると「君の膵臓を食べたい」というタイトルは
僕にとっての、今までいた世界から広がりを見せるきっかけ・前の世界から新しい世界への扉を開くような「合言葉」も意味もある言葉です。
- 僕の世界が桜良によって広がった合図のような言葉
前述の桜良と僕だけが理解し得る「合言葉」とはまた違った意味での「合言葉」です。
補足:『君の膵臓をたべたい』の意味(食べたい)
なぜ「食べたい」ではなく「たべたい」なのか?
理由は2つ考えられます。
- 『君の膵臓』を強調・浮き上がらせるため
- 「食」に桜良の「良」が入っているため
その1:漢字部分が強調される
作品名を並べて比べると分かりやすいのですが
君の膵臓を食べたい(●ー●●ー●ーーー)
君の膵臓をたべたい(●ー●●ーーーーー)
カッコ内は漢字を●、ひらがなをーで表現したものですが、
「食べたい」を漢字にしてしまうと、全体に目が行ってしまいますが
「たべたい」をひらがなにすると、前半部分に目が行きやすくなります。
効果的に●(漢字)部分=「君の膵臓」に注目をさせるために、あえてひらがなで「たべたい」にしたのかな?と考えられます。
「君の膵臓」がどうした?と引き付けて「たべたい」を読ませる、ビジュアル的な要素です。
その2:「食」の漢字がもたらすもの
何度か繰り返し述べていますが
「実際に膵臓を食べるのなんて無理」
です。
なので「食べる」という行動ではなく、「食べる行為に近しい”なにか”」であるからこそ、漢字の「食べる」を避けたのでは?と考えられます。
どうしても漢字の「食べる」は食事、実際に口に食物を運ぶ行為をイメージさせるので。
さらに、
「君の膵臓を食べたい」という言葉にしてしまったとたん、2人の交流がはじまり、世界が変わっていきます。
実際にはここまで作品タイトルを考察してきた通り「食べる」ことは間接的に
- 命をつなぐこと
- 相手を受け入れること=自分の中に取り入れること
- 自分を受け入れること=自分や世界をかみ砕いて自分なりに飲み込むこと
の代名詞のようなものになっていると言ってもいいでしょう。
そう考えるとやはり「食」という漢字はふさわしくないです。
食の漢字を「人を良くする」と書くという言い方をする人もいますが、実際の「食」の漢字の成り立ちは
人の部分=蓋(集めて器に蓋をする意味)
食の部分=穀物を持った様
「食」は会意文字で「容器に入れて手を加え、柔らかくして食べること」を意味する漢字
と言われています。
『君の膵臓をたべたい』において、フタをする「食」はどうにも合わない気がします。
「僕」が変化する話なので。
なので、個人的な超解釈ですが、食を「人」という形と「良」という形の2つに分けて、
僕の「春樹」という名前の「春」部分に「人」を、
桜良も名前にあえて「良」を付けて、二人が出会い合わさることで「食」になるようにしたのかな…と。
さらに意味を重ねて「春」「樹」「桜」と名付けたのでは…と考察しています。